「もしかして、私が悪いのかな…」
人のちょっとした表情や態度に、心がざわついてしまう。
誰かが怒っていると、自分に向けられている気がして苦しくなる。
本当は何も言われていないのに、「嫌われている」「責められている」と感じてしまう。
それは、ただの気にしすぎではないかもしれません。
私自身、かつて「逆エンパス」と呼ばれるような状態で、他人の感情を自分のことのように受け取ってしまい、日々を消耗していました。
この記事では、「逆エンパスとは何か?」という基本から、私自身の体験、そしてそこからどうやって楽になっていったのか
誰にも言えずに、ひとりで苦しんでいる方に、少しでも「大丈夫かもしれない」と思ってもらえたら嬉しいです。
私は「逆エンパス」だった
私は昔、人の感情を自分のことのように感じてしまうタイプでした。
相手が不機嫌そうだと、「私が何かしたのかもしれない」と思い込み、心がざわつきました。
誰にも何も言われていないのに、責められているように感じてしまうのです。
実際には、自分とは無関係の感情でも、なぜか強く影響を受けてしまう。
そんな日々が続いて、私はいつも緊張していました。
あるとき、「私が今どんな気持ちでも、周りには関係ない」とふと思ったのです。
私がとても嫌やな気持ちで落ち込んでいても、周りは坦々とその人の人生が続いている。
「これって、私とその人は別の世界を過ごしているんじゃないか。」「人と人は感情の上では交わることはないのではないか」と思いました。
そう思うことで、少しずつ他人との間に境界線を感じられるようになったのです。
「逆エンパス」という言葉を知ったのはあとになってからですが、あの頃の私はまさにそれでした。
人の感情を受け取りすぎて、自分を責め続けていました。
他人の感情に飲み込まれていた日々
あの頃の私は、いつも周りの感情に敏感でした。
誰かが不機嫌そうにしていると、自分が何か悪いことをしたのではないかと不安になり、心がざわついて落ち着かなくなっていました。
相手の表情や声のトーン、ちょっとした沈黙にも反応してしまい、「嫌われたかもしれない」「怒らせたかも」と思い込むクセがついていました。
たとえ自分には関係ないと頭でわかっていても、心はついていかず、勝手に罪悪感がわいてきました。
そんなふうに、人の気持ちを過剰に受け取ってしまう毎日は、静かに自分をすり減らしていくような感覚でした。
「私が悪いのかもしれない」と思い続けていた
他人の感情に振り回される日々が続く中で、私の中にはある思考のクセが深く根づいていきました。
それは、「きっと私が悪いんだ」という思い込みです。
相手が不機嫌そうにしていると、「私の言い方がよくなかったのかもしれない」「余計なことを言ったのかもしれない」と、原因を自分の中に探し続けていました。
明らかに無関係な場面でも、「もしかして私のせいで…」と考えてしまうことが多かったのです。
本当は、相手の感情のすべてに責任を持つ必要なんてないはずなのに。
私はどこかで「人の機嫌を損ねてはいけない」と思い込み、常に自分を抑えて生きていました。
たとえば、家族が機嫌を悪くしていたとき。
私はその理由を聞くよりも先に、「ごめんね、何かしたかな?」と謝ってしまっていました。
何もしていないのに、相手の怒りや不機嫌の原因になっている気がして、
とにかくその空気をなんとかしようと、必要以上に自分を責めていたのです。
今振り返ると、「私が悪いのかもしれない」という思いは、
本当は「嫌われたくない」「受け入れてほしい」という気持ちの裏返しだったように思います。
誰かに否定されることが怖かったのです。
だから先に自分を責めて、自分を小さくして、衝突を避けようとしていたのだと思います。
けれど、そのやり方では私自身の心が守られることはありませんでした。
むしろ、自分の感情や存在をどんどん見失っていくようで、「私はどうしたいのか」「私は何を感じているのか」がわからなくなっていきました。
逆エンパスとは何か?
逆エンパス=人が自分のことをどう思っているかを、必要以上に深く受け取ってしまう心の仕組み
「逆エンパス」という言葉は、まだあまり一般的ではないかもしれません。
でも、人の感情に敏感な方、特に「人からどう思われているか」に強く反応してしまう方には、「それ、私のことかも」と思えるような感覚があるのではないでしょうか。
一般的な「エンパス」は、他人の気持ちや空気感を敏感に察知し、共感する力の強い人のことを指します。
それに対して「逆エンパス」は、他人が“自分に対して”どんな感情を持っているかをまるで自分の感情のように感じ取ってしまう、という特徴があります。
たとえば、
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相手が無言だと「嫌われてるのかも」と感じる
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誰かが怒っていると「きっと私のせい」と思い込んでしまう
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目線や態度から勝手に「悪く思われている」と受け取ってしまう
こうした感覚は、実際に相手から何か言われたわけではなくても、自分に向けられていると感じてしまうほど強く反応する心のクセです。
逆エンパスの人は、自分の内面と他人の感情の境界線がとても薄く、見えないはずの「相手の心の中」を勝手に想像し、それを現実のように受け取ってしまうことがあります。
その結果、何も起きていないのに罪悪感や不安に襲われたり、相手にどう思われているかが気になりすぎて、自分の感情を後回しにしてしまうのです。
私自身、「逆エンパス」という言葉を知ったとき、「ああ、これだったんだ」とすごく腑に落ちたのを覚えています。
「ただ人の気持ちに敏感なだけ」と思っていたけれど、実はそれが自分を苦しめる原因になっていた。そう気づいたことで、少しだけ自分を客観的に見つめられるようになりました。
「共感する力」が強すぎるエンパスと、「自分に向けられた感情」を受け取ってしまう逆エンパス
「逆エンパス」と聞くと、まるで特殊な能力のように思えるかもしれませんが、もともと「エンパス」と呼ばれる人たちと、根っこは似ています。
どちらも、人の感情やエネルギーに敏感で、空気の変化を繊細に感じ取る人たちです。
ただ、エンパスと逆エンパスでは、「どこに共感しているか」が大きく違います。
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エンパス:相手の気持ちや状況に共感する(悲しみ・怒り・喜びなど)
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逆エンパス:相手が自分に対してどんな感情を持っているかを感じ取ってしまう
たとえば、普通のエンパスであれば、「この人、最近落ち込んでるんだな」「あの人、怒ってるみたいだな」と、その人の今の気持ちに共感するかたちです。
それに対して逆エンパスは、「この人、私のことを嫌ってるかも」「私にイライラしてるのかもしれない」など、自分に向けられている感情としてダイレクトに受け取ってしまう特徴があります。
そのため、相手がどんな感情を持っているかだけでなく、「自分がどう思われているか」に対して強く反応してしまい、それが不安や自己否定につながるケースがとても多いのです。
この違いを知ることで、「自分が人に敏感すぎるのは、ただの性格じゃなかったんだ」と気づける人もいると思います。
自分のことを知ることは、苦しさから少し距離を取るための、はじめの一歩になります。
無意識に“相手の心の奥”を受信してしまう感覚
逆エンパスの人がとてもつらいのは、相手の心の奥にある感情や気配を、意図せず受け取ってしまうことです。
表面上は普通に接しているのに、「本当は怒ってるんじゃないか」「心の中では私のことを嫌っているのかもしれない」と、言葉ではなく空気や波のようなものを感じ取ってしまうのです。ある意味、空気を読みすぎている・・・。
もちろん、それが真実かどうかはわかりません。
でも、逆エンパスの人にとっては、それが「事実」として伝わってくるように感じてしまうのです。
だから、「気のせいだよ」と言われても、頭では理解していても、心のざわざわが止まりません。
そして、そういった気配を察知してしまったとき、無意識に「どうにかしなきゃ」と思ってしまうのです。
・自分の言動を責めはじめる
・居心地の悪さから、何も言えなくなる
防衛反応によって本来の自分らしさや安心感はどんどん失われてしまいます。
本当に傷ついたのは、「感情そのもの」ではなく、「その感情に振り回されることで、自分を見失ってしまう感覚」だったのかもしれません。
私自身もそうでした。
空気を読むことが得意なはずなのに、そのことで何度も苦しくなりました。
「私は感じすぎるだけなんだ」と思うことで、ようやく少しずつ楽になっていったのです。
私が抜け出すきっかけになった考え方
「私の感情は、誰にも届いていない」と気づいたとき、心が静かになりました。
人の気持ちに敏感であることは、決して悪いことではありません。
でも、それによって自分の気持ちが押しつぶされそうになるなら、どこかで一度、境界線を引く必要があると私は感じました。
私にとって、その最初のきっかけになったのが、ある日ふと思った「私の感情って、誰にも届いてないんだな」という気づきでした。
たとえば、私が心の中でどんなに落ち込んでいても、どんなに罪悪感を感じていても、それは周囲の人には見えないし、伝わってもいません。
私がただ静かに涙をこらえていたとしても、目の前の人には、何も変化がないまま時間が流れていくのです。
そのとき私はこう思いました。
そしてこの言葉に続けるように、「だから、私の感情は無意味なものなんだ」と唱えるようになりました。
一見、冷たく聞こえるかもしれません。
でもこれは、感情を否定するための言葉ではなく、自分の心を守るための境界線を引く言葉だったのです。
私の感情は、誰にも届いていない。
だから、誰かの感情が自分に届いたように感じたとしても、それもまた感覚でしかない。
そう思えるようになってから、私は少しずつ人との距離感を取り戻していきました。
他人の感情を感じ取ってしまっても、それに反応する前に、「これは私の感情じゃない」と一度立ち止まることができるようになったのです。
もちろん、今でもすべてがうまくいくわけではありません。
でも、自分の感情に責任を持ちすぎなくていいとわかったこと。
そして、他人の感情に巻き込まれない選択ができるようになったことは、
私の中で大きな転機になりました。
「私の感情は誰にも影響しない」と唱えることで、心の境界線が生まれた
他人の感情を敏感に受け取ってしまう私は、同じように「自分の感情も相手に届いてしまっている」と、どこかで思い込んでいました。
だから、誰かが不機嫌になると、
「私の存在がそうさせてしまったんじゃないか」
「私がこんなふうに感じているから、空気が悪くなったんじゃないか」
と、自分の気持ちを責めていたのです。
でもあるとき、ふとこう考えてみたんです。
私が心の中で何を思っていても、
それは相手には伝わっていないかもしれない。
その瞬間、少しだけ心がふっと軽くなりました。
「感情って、自分の中にあるものであって、誰かの気持ちにまで影響を与えるものじゃない」
そう思うことで、心に一本、境界線が引かれたような感覚がありました。
もちろん、感情を否定しているわけではありません。
ただ、「私がどう感じていようと、それは私のものであって、誰かを不機嫌にさせたり、場の空気を悪くしているとは限らない」という視点に立てるようになったのです。
この考え方を心の中で何度も唱えるうちに、人の顔色をうかがうことが少しずつ減っていきました。
「今、私の感情はここにある。でもそれは、誰のものでもない」
そう言葉にすることで、自分を守る力が育っていったように思います。
感情は“交わらない”という前提で生きることで、心が自由になっていった
私がもうひとつ意識するようになったのが、「人と人の感情は、交わっていない」という前提で生きるということです。
私たちは、つい「この人はきっとこう思ってる」「私の気持ちをわかってくれているはず」など、目に見えない感情のやりとりがあるように感じてしまいがちです。
でも実際には、感情は心の中にあるものであり、相手に伝わるのは、言葉や態度として表に出たものだけです。
私はこの考え方に気づいたとき、少し驚きました。
「感情って、伝わってると思い込んでただけなんだ」
「逆に、相手の感情も受け取ってしまってる気がしていただけだったのかもしれない」と。
そう気づくことで、私は次のように考えられるようになりました。
感情は、交わっていない。
相手が何を感じているかは、言葉にされない限り、私にはわからない。
だから、それを勝手に想像して傷つかなくていい。
この前提に立つようになってから、心の中の余計なノイズが減っていきました。
相手の顔色や感情を読み取ろうとしすぎて疲れていた自分が、ようやく呼吸できたような感覚でした。
人との間に距離を置くというよりも、「自分は自分、相手は相手」と認識することで、お互いを尊重できるようになったのだと思います。
そして今でも、感情の境界線が曖昧になりそうなときは、この考え方をそっと思い出すようにしています。
「あなたが悪い」と言った霊能者を見て感じたこと
手放せないあなたが悪いという言葉に、私は深い違和感を覚えたことがありました。
ある日、動画でとある霊能者の話を目にしました。
彼は、トラウマを抱える人に対して、こう言い切っていたのです。
「トラウマを手放せないあなたが悪いんです」
私はその言葉を聞いたとき、心がざわっとしました。
そして、強く違和感を感じました。
確かに、過去の苦しみや感情に執着しすぎることで、今を生きづらくしている人もいるかもしれません。
でも、その執着と呼ばれてしまうものの中には、手放したくても手放せないほど、深く心に残った痛みがあるはずです。
誰だって、好きでトラウマを抱えているわけじゃない。
その人なりに必死で生きて、抱えたままでもなんとかやってきた。
それなのに、「あなたが悪い」と言い切られることが、どれほど追い打ちになるか想像できていないように思えました。
私は、その言葉自体に攻撃性を感じました。
助ける立場にあるはずの人が、無意識のうちに「傷ついたあなたが悪い」と責めている
それは、癒しとは正反対の行為ではないでしょうか。
傷を抱えたままでも、いいんです。
すぐに手放せなくても、全然かまわない。
むしろ、その痛みを知っているからこそ、他の誰よりも優しくなれた人がいると思います。
私は、そうした人たちにこそ、
「あなたは悪くないよ」
「それでも、あなたはちゃんと生きてる」
そう伝えていきたいと思いました。
その言葉こそ攻撃的だった
導く立場の人が言うからこそ、その一言が心を深く傷つけることがある
「あなたが悪い」「それを手放せないから現実が変わらない」
そんなふうに言われたとき、もしそれがただのネット上のつぶやきなら、聞き流せたかもしれません。
でも、それが霊能者やヒーラーという立場の人からの言葉だったからそうはいきません。
人は、弱っているときほど「信じたい誰かの言葉」を探します。
信じられる存在に出会えたと思ったとき、その人の言葉は、心の奥深くにすっと入り込みやすくなります。
だからこそ、導く側の言葉には責任があると思うのです。
「手放せないあなたが悪い」という言葉は、いっけん真実のように聞こえるかもしれません。
でもそれは、すでに苦しんでいる人に対して「その苦しみを選んでいるのはあなた」と告げるようなものです。
そして、その言葉を聞いた人は、
「やっぱり私はダメなんだ」
「こんなふうに思ってしまう私がいけないんだ」
「ちゃんとできない私が悪いんだ」と思ってしまうかもしれません。
本来であれば、心を軽くするために届くはずの言葉が、かえって重荷となってのしかかってくる。
それはもう、言葉の暴力に近いものだと私は思います。
「まだ手放せなくても大丈夫」
「そのままのあなたでも、十分に価値がある」
言葉は、救いにもなれば、刃にもなる。
だからこそ、私は丁寧な言葉で人と関わりたいと思っています。
寄り添わず裁く言葉は癒しではない
上からの言葉より、隣でそっとうなずいてくれる存在のほうが、人の心を救ってくれる
癒しという言葉は、とてもやわらかく聞こえます。
けれど、その裏に「裁き」や「優劣」が混じってしまえば、どんなに正しそうに聞こえる言葉でも、人の心を癒すことはできません。
私が違和感を覚えた霊能者の言葉もそうでした。
「あなたが悪い」と言い放つその口調には、まるで高い場所から見下ろしているような空気があって、そこには寄り添いの気配がまったくありませんでした。
本当に人を癒せる人というのは、高い椅子にふんぞり返って相手を見下ろす人ではなく、同じ目線で、静かに話を聞いてくれる人です。
たとえ特別な力がなくても、言葉の選び方ひとつで、誰かの心はやわらかくなるし、逆に、どれだけ「霊的にすごい」と言われる人でも、その言葉に思いやりがなければ、言霊というものも理解していないと思うのです。
私が誰かと関わるとき、いつも大切にしたいのは、「並んで座ること」。
上下ではなく、対等に。
一緒に痛みを見つめられる距離でいたいと思っています。
正しさを伝えることが正義ではなく、安心を届けることなのかもしれません。
最後に伝えたいこと
手放せなくてもいい。あなたは、もう十分に強い
これまでの自分のことを振り返って思うのは、「敏感すぎること」も、「人の感情を背負ってしまうこと」も、全部が優しさの裏返しだったということです。
人の心に触れすぎて苦しくなった経験は、その人の奥にある思いや痛みに気づける力へと変わっていきます。
だから私は、過去の自分を「弱かった」とは思いません。
むしろ、よくここまで歩いてきたなと、今は素直に思います。
そして、もし今あなたが、誰かの感情に振り回されてしんどくなっていたり、過去の痛みを手放せずに苦しんでいたりしても、どうか、自分を責めないでほしいのです。
手放せないことは、悪いことではありません。
むしろ、それを抱えながらも生きている今のあなたは、すでにとても強い存在だと思います。
私はそんな人たちの思いが届く場所を、これからもつくっていきたいと思っています。