日本人が信じた”見えない力”ー呪術と陰陽師に支配された時代

日本人が信じた見えない力

占いや神様を信じることはおかしいことなのでしょうか。
近年、そのようなものを信じることは非科学的で不思議ちゃん扱いをされたり、タブー視されるような傾向にあります。
しかし、みんなどこか心の中ではほんの少しだけでも信じている部分があると思います
日本の歴史から見て、神や占いを信じなくなったのは長い歴史の中のつい最近の話なのです。
私は、科学の発達が精神世界を蝕んでいったんじゃないかと、本来ならあるべき姿だったはずなのに、それをないものとしたのは科学の発達なのかなと思いはじめました。

生活のすべて、人生のすべてを信仰とともに生きていたと思われる平安時代。
人々はなぜ神仏にすがり、神仏とともに生きていたのか
現代人からは想像できない世界です。

平安時代は神仏を当たり前のように信じていた。

最近、大ヒットした大河ドラマ「光る君へ」と見てもわかるように、何をするにもご祈祷や占いをしていました。
嫌いな人がいれば呪詛をかけ、政は日時を占いで決め、信じていない人なんていなかったのではないでしょうか。
まだ、科学も発展していないので、天動説を信じているため、地球を中心に天が回っていると思っています。
科学的なことはわからない為、起こることすべてに何かが作用して何か意味があるとしたら、目に見えないものの存在も信じてしまうのは無理もないことなのです。
起こることすべてに科学的な意味があると思い込んでいる現代人には到底理解できないことでしょう。

庶民の間に広く浸透していった仏教

日本古来から信じられていた神道

 

あぱちゃん
不況になるほど神社が儲かるとか言うもんね。
平安仏教というと、空海と最澄が出てきて、色々と教えを説いていくのですが、詳しいことは社会科の専門ではないのでやめておきます。
神社や寺は昔はそんなに区別はなく、色々な教えも混在していて神仏習合としてお互いの教えや儀式を取り入れ合い新しい形式へと変化させていきます。
いやぁ~日本人感が出てますね。平安時代から日本人はいろいろなものを受け入れ取り入れて新しいものへと変化させてたのですね。

ゆーあ

ラーメンや餃子、創作フレンチもそうだよね

神は神、仏は仏になったのはつい最近のこと

それは神社!これは寺!と今では完全に分かれている、神と仏
神仏習合でせっかく一緒になったものを引き離したのは一体、いつのことだったのでしょう。
明治元年に新政府が神仏分離令を出すまでは仲良く一体化していたのです。
神道を国教化するという目的のために、分離させる必要があったのですが、あまりにも強引に引き離し、差別化したため色々な反発を招いたようです。
その後、神道は宗教ではないという考えが広がり、現在に至るわけですが、私たちが生まれる前のことであるにもかかわらず、私たちには神道の精神が根付いています。
なので、お正月には初詣、悪いことしたら罰が当たる、すべてのものには神が宿るから物を大切にしないといけない、等。
これってよくわからないけど、何となく信じていることだと思います。

平安時代の人々の死生観

同じ日本という国でありながら、やはり平安時代までさかのぼると死生観は今と全く違ったものだったようです。
人が亡くなったら私たちは葬儀をします。平安時代はどのようにしていたのでしょう。

平安時代は穢れを重視し、人命を軽んじていたのか?

平安時代は穢れという考え方を抜きにしては人々の生活は語れません。
今でいう汚れとはまた違った考え方です。
人の死、家畜の死は穢れとしてとしてとらえられていました。
死だけではなく、出産までも穢れだったようです。
人の死に目や死体に会ってしまうと30日間、出産は7日間穢れてしまうとされていました。
そして、穢れは伝染するため同じ空間にいると穢れが移ると思われていました。
親族が亡くなっても触れてはいけないなどがあり、宮中の階級の高い人は火葬されましたが、平民は風葬がほとんどでしたので、その辺に死体がゴロゴロあるという状態です。
ちょっと現代では考えられないですね。
これらすべては共通点があって、「境界にあるもの」だそうです。

呪いの全盛期?呪術で操作しようとしていた。

平安時代は、貴族たちが宮廷で栄華を極めた時代です。
しかし、その華やかさの裏には、陰湿な権力争いや、見えない力にすがらざるを得ない不安が渦巻いていました。

医学・科学の未発達と「怨霊信仰」

現代では、病気や災害の原因は科学で解明されていますが、当時の人々はそうではありませんでした。
病気、事故、天災などの不幸は「怨霊の仕業」と考えられていました。
特に、非業の死を遂げた者が怨霊となって祟るという「怨霊信仰」は、平安貴族たちにとって恐怖でした。
有名なのが、菅原道真や崇徳上皇の怨霊伝説です。彼らは生前に無念を抱えたまま亡くなったため、死後に天変地異や厄災を引き起こしたと信じられています。

呪術が権力闘争の道具となった

平安時代の政治は、表向きは天皇を中心に動いていましたが、実際には貴族たちの権力争いが激しく、陰謀や策略が渦巻いていました。
その中で「呪い」は、武力を使わずに相手を排除する方法として使われたのです。
貴族達は、自分の敵を呪い殺そうと陰陽師や呪詛師を雇い、夜な夜な密かに儀式を行いました。
また、呪いを恐れるあまり、逆に「身を守るための呪術」も発達しました。

 

平安時代の呪術とその方法

平安時代の人々は具体的にどのように呪術を使っていたのでしょうか。

①丑の刻参り(うしのこくまいり)

現在でも有名な藁人形に五寸釘をぶっさすという儀式ですが、これは平安時代から行われていました。
ただし、これらの儀式は非常に危険で、途中でだれかに見られると悪露委が自分に跳ね返ると信じられていました。
7日間にわたって行われていたため、人に見られる確率は高く、ハラハラドキドキの方法です。

②陰陽道(おんみょうどう)と陰陽師(おんみょうじ)

平安時代の呪術と言えば、陰陽道を抜きに語ることはできません。
陰陽道は中国から伝わった「陰陽五行説」をもとにした占術・呪術の体系で、これを操る陰陽師が国家の重要な役職として活躍していました。

陰陽師の主な役割:
・天変地異の予測(星の動きを見て未来を占う)
・方角の吉凶を判断(遷都や引っ越しの際に重要)
・呪詛(敵を呪い、病や厄災をもたらす)
・祈祷・浄化(呪いを解く、お祓いをする)
とくに有名なのが安倍晴明です。彼は呪術の天才と言われ、貴族たちの相談役として宮廷で活躍しました。
彼の能力があまりにもすごかったため、死後も伝説となりました。

③ 物の怪と呪詛合戦

平安時代の貴族たちは、「物の怪」と呼ばれる霊的存在に憑りつかれることを恐れていました。
特に、病気になると「誰かの呪いではないか?」と疑い、呪術合戦が繰り広げられることもありました。

呪いの呪術とその後

平安時代をピークに、鎌倉時代以降は武士の時代へと移り変わり、呪術よりも「武力」がものをいう時代になって行きます。
しかし、呪いの文化が完全に消えたわけではなく、民間では陰陽師や呪術師が細々と活動を続けました。
現代においても、神社で厄除けをしたり、お守りを持ったりする習慣が残っています。
これは平安時代から続く「目に見えない力への信仰」の名残とも言えるでしょう。

まとめ

  • 平安時代は呪いと呪術の全盛期だった
  • 貴族社会では呪詛が権力闘争の道具として使われていた。
  • 陰陽師や呪詛師が活躍し、呪いの技術が高度に発展した。
  • 現代でも「お祓い」や「厄除け」としてその名残が続いている。

目に見えない力を使ってこの世を操作しようとした平安時代の人々。
科学が発展した今でも、人々が目に見えないものを気にするのは、私たちの心の奥に「見えない力」への畏れと信仰が残っているからなのかもしれません。